不確実な今に時代を超えて変わらないものをみつめる
こんにちは。
かなり大げさなタイトルを付けてみましたが、うまく着地するかは不明です。
いつも通り、書きながら自分の中で何かが見えてきたらいいなの気持ちで書いてみようと思います。
2020年のコロナウイルス流行から始まり、昨今、トランプ大統領就任後、世の中は混乱を極めています。
未来のことはわからない、という事実はいつも変わらないはずだったのに、2020年以降は世の中の変化のスピードが加速度的に増すことによって、これまで以上に先を見通すことが困難になってきていると感じている人も多いのではないでしょうか。
こうした状況のなか、絶望して無気力にならないために、自分が無意識のうちにやっていたことに気がついたのそれをシェアしたいと思います。
それは、時代を超えて変わらないものを探求することです。
これだけ書くとすごく大げさに聞こえると思いますが、揺れる電車の中で捕まるものを探すのと同じような原理で、不安定な世の中でも地に足つけて正気でやっていくために結果としてそういう発想になったのかなと思っています。
で、この時代を超えて変わらないものって、色々あると思うのですが、私はそれは人間の精神性ではないかと思っています。人間がこの世に生まれる前の世界の話も探求したいのですが、脳みそが一つしかないのでまだそこまで至れていません。
精神性、とひとことに言うとあまりに曖昧だと思うのですが、私はこれを文学や音楽などの芸術表現に感じることが多いです。他の芸術表現にもおそらく精神性は宿っていると思うのですが、私は小説と音楽から一番微細に精神性を受け取ることができると感じています。また、一部の哲学や思想に対しても同じように感じます。
芸術が好きな人であればわかってくれる感覚だと思うのですが、自分が心震わせられるアーティストにおいて、その人がいま生きているかすでになくなっているかは全く関係ないと思いませんか?その音楽を聞いて心が震えるとき、その作品が持つなにか(これが多分精神性?)が自分の心に触れているのだと思います。もちろん、すでになくなっているアーティストのパフォーマンスを、その時代に自分が生きて体験していた場合と、いま私が感じている感動が同じものかどうかは確認のしようがありませんが、ただ、心を震わせるような何かが作品に宿っており、それが現代を生きる私の心を動かしているということはそこには「なにか」があると考えるのが妥当ではないかと思います。
同様に、哲学や思想についても、当時の時代の潮流に沿っておらず、正当な評価を受けられなかったものの、現代において再度その価値が再評価されるものが多くあります。
私はこういうものを大量に接種して、時代を超えて受け継がれるものの共通性を見出したいと思っているのですが、まだそこには至っていません。
でも、こういうことを考えながら、小説を読んだり、音楽を聞いたり、思想書を読んでいろんな時代・色んな場所にワープすることで、あまりに不安定で不確実性の高い世の中の流れに振り回されないで済むように感じるのです。(もしかして人はこれを現実逃避と呼ぶ?)
とにかく、一時的な避難でも、現実逃避でもなんでもいいので、現実がつらくなってしまったら、「いま」と全然繋がりそうもないものに触れて、つながることをおすすめします。なにかひらめくかもしれないし、現実と真正面からにらめっこしているだけだと思いつかなかった視点が得られるかもしれません。
ということで、今回は簡単に言うと、現実がしんどくなったら良質な芸術に触れて心を潤しましょう、というお話でした!
最近のヘビロテ三姉妹
こんにちは。
最近ヘビロテしている2曲とその関連曲を紹介させてください。
ずばりこちら!
Monroseというドイツの3人組グループのHot Summerです。
ばちばちに決めたお姉さんたちが謎の男ダンサーと絡むだけのシンプルなMVなんですけど、サウンドといいメイクや衣装の感じといい、2000年代ノスタルジアが爆発します...(動画公開日は4年前になってるけど、2007年リリース)
最近どのジャンル聴いていても2010年ごろを境に何かが変わってしまっていて、それ以前の曲には今の曲にはない"何か"を感じてしまうのですが、ただ私が歳をとって懐古厨になってしまっただけなのか...
曲の話に戻ると、とにかく音が激しくていいですよね。なんかビヨンセとレディガガのTelephoneとか、KeshaのTik Tokとかも同年代ですけど似たような感じでどれも好きです。こういうのなんていうジャンルなんだろう。ポップスではあると思うんですが、最近のポップスでこういうアグレッシブな音って全然聞かないですよね。アグレッシブさはフューチャーポップとか電子音楽っぽい方とかに昇華されたりしてるイメージ。なんでなんだろう〜
あと、KPOP好きなら気づいたと思うんですけど、これかの伝説のグループf(x)のHot Summerの原曲なんです!f(x)の方をとっくの昔に知っていたので、最初こっちを聴いた時はびっくりしました。KPOPの海外(主にアメリカ)の音楽の潮流をキャッチする感度の高さは本当に昔から健在だなーと感じました。そしてf(x)バージョンも結構原曲まんまで歌ってるんだけど、ものにしてるというか、しっくりきているのがすごい。
ということでお次は我らがf(x)のバージョンです!
やばい...ウォークマンにMV入れてみまくり、Youtubeでありとあらゆるライブ映像を見漁っていた若かりし日々が思い浮かびます(遠い目)
囲み目メイク、ピンクの戦車、スタッズだらけの衣装....SMのトンチキ具合、今振り返ってもすごいです。そしてこれを成立させてしまうメンバーたちよ...
セクシーか清純かぐらいしかガールズグループにコンセプトがなかったこの時代に(そんなことないかな)この謎のコンセプトをf(x)がぽつんとになっていて、出会った時はすごく新鮮だったのを覚えています。
あと、さっきの原曲を聴いてから改めて聞くと、韓国語バージョンうまく作ったな〜と感心します。韓国語版を日本語にする時は結構クオリティの差が激しいんですけどね。
少女時代の曲の日本語バージョンベストとワースト紹介する回もいつかやります。噴飯ものです。
ではでは最後はこちら!
Hot Winter!季節は変わりましたが曲は同じです!こちらはJolin Tsaiという台湾の歌手の方のバージョンですね。確認したらリリースは2009年で、f(x)のリリースは2011年なので、こちらの方が早いんですね。
実は彼女のことは最近知ったのですが、1999年から活動しているらしく、過去には日本でライブしたこともありますし、なんと安室ちゃんともコラボしていたみたいです。
この曲以外にもいくつか聴いたんですけど、安室ちゃんとのコラボというのがすごくわかりやすい立ち位置の紹介として機能してくれた気がします。時代のアイドル、ポップスターという感じで、キャッチーな曲が多くて好きです。
経歴からしても明らかにすごく人気のある方なんですが、全然知らなかった。実はJay Chouのことを知ったのもここ数年のことで、日本にいると本当に中華圏のいまのポップカルチャーって全然流入してこないなと思います。それに比較するとKPOPは本当に変わったなと思います。テレビにもガンガン出てるので、好きかどうかにかかわらず耳にする機会があるけど、CPOPは能動的に触れにいかないと接触機会が全くないですよね。
私の場合は親の親世代の懐メロとかはわかっても、今の若い人たちの流行は逆に触れる機会がなくて、ここ数年何とか素敵なアーティストにちょこちょこ辿り着けるようになって、そこから芋づる式にもっと知っていけたらなーと思っているところです。
CPOPとその他中華圏の音楽についてもまたいつか取り上げてみたいと思います!
それでは!
2024年面白かった本3選
こんにちは。あけましておめでとうございます!
年が明けてしまったのですが、ふと思い立ったので、昨年読んだ中で印象に残っている本を3つ選んで紹介したいと思います。
昨年は夏に1ヶ月以上運良く社内ニート期間があって、暑くて外に出る気にもならないから一日中本を読んだりしていたので最高でした。
それでは最初の1冊!
川上未映子の「夏物語」です。
これ、男性にこそ是非読んでほしいなぁという一冊なんですが、フェミニズム入門みたいな新書に手は伸びても、これ読む気合いある人はなかなかいないだろうなと思う。。。
でも、やっぱりだからこそ読んでほしい一冊。
私の積読・読書記録bot(インスタアカウント)にあげた感想文です(長い)↓
言わずと知れた日本フェミニズム文学の金字塔
絶対に読むべきだとは思いつつも、とにかく内容がヘビーだとの噂があったので、ずっと手を出せずにいた。
でも何がきっかけかもう忘れてしまったけど、(いつもの如く日常生活の中で女であることの理不尽を感じたのかも)読んでみようと思い立ったのが確か2023年の夏だったので、もう一年弱ぐらいかけてゆっくり読んで、ついに読了した。(読了は2024年4月)
まず、内容がヘビーだという点について、確かに間違いなくこれはヘビーだと思う。
単純に文量が多かったのも読み切るのに時間がかかった理由のひとつだけど、時間があって、この本を読もうかなと気が向いても、この本に向き合う気力が足りてなくて結局読まずじまいだったことが本当に何度もあった。
しかも恐ろしいのは、この物語の中にででくるヘビーな出来事や描写はどれもフィクションだけれど、おそらく限りなく近い現実を経験している人間がこの世に無数にいるということ。
そのくらい、とにかくリアルだった。リアルすぎて苦しかった。フィクションを読んでいるのに、話に出てくる人物みんなが本当に存在するんじゃないかと思うくらいとにかく生々しくて、川上未映子自身がフェミニズム文学ではなく人間を描きたい、と言った趣旨の発言をしていたのがよく納得のいく描写力だった。
ヘビーさに話を戻すと、これは間違いなく笑えたり心が明るくなりましたと言ったタイプの小説ではないが、とにかく悲惨な出来事ばかりが起きて救われない物語というわけでもないと私は感じた。
また、この話はフェミニズム文学としての側面を強く持ちながらも、貧困や社会的階層についても非常に精密に描かれていると思った。
また、逆にいうと階級の異なる女性でも、その内実に差はあれどそれぞれの形で女性として生きる痛みを抱えているということも描写されていた。
さらにいえば、この話はフェミニズムというよりも生と死についてとことん向き合っている。人の数だけ生と死があり、そこには物語があるというごく当たり前のことがすごく丁寧に描写されていた。
特に後半は怒涛の展開で、自分がなんで泣いてるのかもよくわからないままずっと泣きながら読んでいた。
大阪はまともにみて回った試しもないのに、なぜかすごく懐かしい気持ちになりながら読んだりした。
そうだ、川上未映子は大阪出身で、主人公をはじめとする登場人物の中にも大阪出身が何人かいて、その人ら同士だと関西弁で会話していたり、大阪に関する表現もうまく言えないけどこだわっているのが伝わってきて、川上にとって自身が大阪出身だということはとても大きな意味があるんだろうと思った。
それから、自分は行ったことがないから大阪の描写についてはなんとも言えないけれど、主人公の住む三軒茶屋の街中とアパートの描写はなんかすごく生々しかった。川上が裕福な育ちではないことも関係しているのか、街や風景、持ち物や身なりなどその人を取り巻くものとその人の生活、思考がすごく一貫していて、とにかく写実的だった。映画を見ているみたいに、というか自分がその場にいるみたいに臭いとか湿度とかが感じられて、唯一無二の読書体験になった。
次、2冊目です!
これは豊饒の海という1冊の本ではなく、『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』の4冊からなるシリーズのようなものです。
1冊ずつが独立した物語でありながら、4冊を通じて夢と転生を描いた一つの大きな物語になっています。
かの有名な市谷駐屯地での割腹自殺前最後の作品としてもとても有名ですね。
いまは、一番最後の天人五衰の途中まで読んだところなので、完全な感想は書けないですが、すでにとても印象的な読書体験になっています。
4冊どれも違った面白さがありますが、やはり一番有名な春の雪の美しさは格別です。
三島由紀夫が若さにこだわっていたこともあり、登場人物の多くが若者である春の雪は若さゆえの無鉄砲さや危うさが前面に出ていて、これぞ耽美主義!という感じ。
人物だけでなく、自然風景や建物などあらゆる視覚的なものの描写が本当に美しくて、読んでいて幸せな気持ちになりました。
例えば同じようなあらすじの物語を他の有名な小説家がその筆を尽くして描いたとしても春の雪とは全く別の何かになってしまうだろうな、と思います。
言葉選びがものすごく洗練されているのと、こんな言い表し方どうやったら出てくるん、とため息をついてしまいたくなります。これぞ純文学。
これが映像ではなく小説で作品を楽しむ醍醐味だと思います。
物語としても、夢と転生という私にとって身近で興味があるかつ謎が深いテーマを扱っていて、すごく面白い。
正直4冊目の中盤に差し掛かってもまだ、その意味はわかったようでわからないのですが、何度も読み返したり、他の夢や転生を扱った作品に触れていったりする中でまた何か見えてくるかもしれません。まだそれは明確に言葉にはならないけど、私の中で重要な二つのテーマに近づくための足場になってくれるような作品だと感じています。
文章長いな!最後の1冊です!
ユン・チアンの「ワイルド・スワン」です。
これは私がしばらく通っていたセラピストに勧められて読もうと思ったらなんと実家の本棚にあった1冊。
これもここまでに紹介したものに負けず劣らずの骨太小説(長い+読むのに心のエネルギーが必要)です。でも本当に読んでよかった。
何よりもすごいのは、これがノンフィクションということ。事実は小説よりも奇なりとは上手いこといったものですね。中国にあまり詳しくない人にこそ読んでほしい。いや!本当にみんなに読んでほしい1冊です。
以下インスタアカウントに載せた感想文の引用です!
清代末期から文化大革命にわたる期間を生きた3世代の女性の物語。
社会情勢やそれを取り巻く制度が激しく変わっていくことは当然ながら、それに翻弄される人々の暮らしが緻密に描かれていた。
昨日の善は今日の悪と言った具合に揺れ動く世界の中で、自分の信念や直感の叫び、家族愛や隣人愛を貫くことの難しさと美しさに溢れている。
そんな世の中でも女性たちが近しくない者に門戸を開き、料理を振舞ったり励ましの言葉をかける場面が印象的だった。
また、祖母、母、娘と代を重ねる毎に女性が置かれる環境が変化してゆく様子も印象的だった。
最初の数十ページ読んでから暫く積読状態だったけど、ちゃんと読了できてよかった。心に刻まれた。
こうやって3冊振り返って気づいた共通点は、どれも小説の設定における社会情勢や社会の風潮と物語が密接に結びついているということですね。
(夏物語では精子提供という現代ならではの技術がでてくるし、豊饒の海は日露戦争の終わりから物語が始まる)
と、つらつら書いてみました。
今回紹介した本はどれも私の心にずっしりとしたものを残していったし、本を読んでいない間、ふとした時にその物語の世界に想いを馳せたりすることも多かったです。
どれも気軽に触れられるタイプの本ではないのですが、興味が湧いたら是非読んでみて、途中までだったとしても感想を聞かせてください!
今年はアフリカ文学や台湾の原住民文学など、今まで全然触れてこなかったジャンルの小説を読みたいなーと考えています。
昨年の後半は小説フェーズを一度ぬけて、思想・哲学書フェーズに入っているので、また今度そちらの紹介もします。
最近は自分の読んだ本やそこから派生した考え方について、決まったごく少数の人としか話してないので、最近こんな面白い本読んだ!とかこの思想がおもしろい!とかなんでもいいので話しかけてくれると嬉しいです。
逆に私が最近面白がっていることについても質問してくれればペラペラ話します!
積読・読書記録用のインスタもあるのでよかったら覗いてください!
https://www.instagram.com/cheng_reading97?igsh=MXU4OHIwMjJmZzFwbg==
ではでは!
常識でも逆張りでもない
こんにちは。お久しぶりです。
なんかブログを書きたい気持ちになっても何を書こうか整理できずしばらく間が空きました。今日もまとまっているわけではないですが、書きながら、何かが見えてくる気はしているので、とりあえず書いてみます。
最近は個性が重要と言われたり、世間の流れとしてもこれまでの常識とは異なる価値観や考え方を重視しようといった考えが広まってきていますよね。
これを受けて、とても抽象的ですが常識や伝統を守ることと、個性を発揮すること、革新的であることのバランスみたいな話をしてみたいと思います。
まず、常識や伝統について。あらゆる物事に対する比較的保守的な考え方について私はひとくくりにして考えることはできないと思っています。
まず、常識というものは十人十色の人間たちがお互いに力を合わせて社会生活を営む上必要最低限のルールだと思っています。
でも、みんながみんな、自分の当たり前=常識だと思って生きていると、結局そこには認識の差が生まれるので常識はそれよりももっと根源的で普遍的なものであるべきだと思っています。(人は無闇に殺さない、とか?それはもはや倫理かも)
現在の日本においてはいろんな人が自分の価値観に基づいた考え方を常識として他人に要求したり、必要最低限以上の個人の選択によるべき範囲についても常識を用いて説得しようとすることで軋轢が生まれている感じがするので、どちらかといえば”常識過剰”状態だと思いますが、とはいえ常識という概念はある程度必要なものだと思います。
また、伝統については常識よりもさらに知る価値のあるものだと私は思っています。伝統とはこれまで長い間受け継がれていたもので、常識は世の中が変われば急に変わることもあるけど、伝統はそんなに簡単に変わらないと思います。(良くも悪くも)
で、長い間受け継がれていたからには、その概念や考え方などは一定以上のメリットがあるのだと思います。
もちろん、新しい時代にそぐわない伝統はあると思いますが、だとしても受け継がれてきた伝統の本質を辿れば、形を変えて新しい時代に残すべきエッセンスが含まれているのではないか、と思います。
おそらく、様々な社会環境や歴史を辿る中でかわっていく考え方や価値観のなかで、ある程度応用が効いて有用なものが伝統として残っていると思っていて、逆にいうとあまり意味のないものや一過性のものは自然と淘汰されていくのではと思っています。
では反対に個性的であること、革新的であることについて考えてみたいと思います。
タイトルに逆張りと書きましたが、個性的であること、革新的であることは常識や伝統の逆張りではないと思います。
つまり、従前のやり方や価値観をぶっこわす、というのは新しいことを考えたりやるなかで自然と起こることであって、破壊が目的ではないということです。
先ほどの話とリンクさせて考えると、個性的であることはいま常識とされているもの(本来常識として強要される範囲を超しているもの)と自分の個性の差分を見極め、自分が従う常識を明確にすることだと思います。
例えば「女は30歳までに結婚すべき」という常識?固定概念に対して、女性である本人が自分のライフプランを考えた結果30歳までに結婚するのがベストであると判断すれば結論としては常識に収まる行動をすることになりますが、そうではない場合これは常識として受け入れる必要はない、というのが現在一般的になりつつある考え方ですよね。(つまり常識であったものが個人の選択によって多様性をもつようになっている)
逆に言えば、常識とされているものに自分の望みが一致していればそれは個性ではないのか、と言われると別にそういうわけではなく、その個人の考え方が偶然いわゆる常識として流通している概念の内側にあった、というだけだと思います。
要は、常識を逸脱しているから個性的であるというわけではないということです。
あと少し脱線しますが、個性は別に現代になって急に現れたものではなく元からずっと人間に備わっていたものだと個人的には思います。
ただ、現代においてはそれが表立って表現されることに対してみんなが昔より少し寛容になった、というだけだと思います。
つぎに、革新的であることについてですが、革新的なアイディアは長く伝統として受け継がれていたものの文脈の中に存在すると思います。つまりゼロから急に革新的な何かが生まれるのではなく、元からあった何かが形を変えたり、組み合わさったり何らかの化学反応を起こしたというのが革新の本質なのではと思っています。
伝統について上で書いた通り、何らかの価値があって受け継がれた伝統が、時代の特異性や偶然やその他色々な要素が絡み合って革新に繋がるのだと思います。
結局何が言いたいのかというと、常識や個性、伝統と革新は相反する概念なのではなく、むしろ地続きというか曖昧に絡み合っていて意外とそんなシンプルに切り離せるものではないのでは、というのが私の考えです。
個人的に、伝統的な価値観を内面化していて、それが自分の本当の価値観なのか分からなくなったりしていたので、それをちょっと抽象度を上げて整理してみたくて書いてみました。
結局はいろんな経験をしながら自分の思考と心の声のフィードバックをちゃんと拾い上げて自分を知る作業を怠らないようにするのしかないのだと思います。
急に話が占星術に飛びますが、11/20日に水瓶座が冥王星に移動します。これまでも年単位で山羊座と水瓶座を行ったり来たりし続けていた冥王星がついに水瓶座に入り、もう200年以上山羊座に戻ることはないのです。
冥王星は西洋占星術で読む10天体のうち一番遠く、公転周期が長いので、すぐに目に見える変化はないものの、世の中の情勢や価値観など曖昧だけど重要なものにじわじわと影響を与える天体です。そして水瓶座のテーマはまさに個性と革新。
ということでこれからの時代は個性個性!とよく言われますが個人的には楽なものではないなと思っています。
自分のことをよく知るというのはいうほど簡単な作業ではないですし何より終わりがないです。周りも自分も常に変化するので。
とまあ、冥王星水瓶座入りを前にして個性や革新について色々考えてみました。
簡単ではないですが面白い時代になる気がしています。
すでに色々と社会情勢はカオスになっていますが、あまり引っ張られすぎずそれぞれが自分に集中することで常識のなすりつけあいみたいなものが減って、結果として社会全体が前向きに進むといいなーと思っています。
では!
タロットと生成AI
こんにちは。
今日はタロットカードを引く時と生成AIに何かを問いかけたりするときの思わぬ共通点をお話ししたいと思います。
あまりにも関連性がなさそうかつ唐突な話ではありますが、結論から言ってしまうと、答え自体よりそのプロセスで得られるものの価値が高い、と言う点でタロットとAIは似ていると思います。
どういうことなのか、まずはタロットの場合から書いていこうと思います。
タロットカードを引く時、特に問いやテーマなしに漠然とカードを引いてそれをみてその日を占う、と言った方法もありますが、大抵の場合は何かしら知りたいことやテーマがあってカードを引きます。
カードの引き方(何枚、どんな配置でカードを引いて、どのカードをどんな意味で解釈するか)は様々ですが、私はよく自分のことを占う時は選択肢をカードに見立てて何枚かカードを引いて、それぞれのメッセージを引いて、どれが一番良さそうかみてみたりします。
で、これをやろうとすると必ず必要になる作業が「選択肢を明確にする」ことです。
例えば「旅行にいくならどこがいいか?」を引きたいと思ったら、もちろん漠然としたままカードを引いて読むことはできますが、そうするとカードを解釈するときに具体的な行き先まで落とし込むのが難しくなります。旅行のために特化したカードで引くならまだしも、タロットカードは一般的にトランプのようにカードの種類は決まっており、それぞれのモチーフの意味を文脈に合わせて解釈する必要があるからです。
なので、例えば
①国内(東北)
②国内(関西)
③海外(アジア)
④海外(ヨーロッパ)
みたいにある程度選択肢を絞って、その中からベストなものが見つかったらさらに絞り込むために仕切り直してカードを引く、という手順がスムーズです。
この選択肢の洗い出しをする部分がタロットカードを引く醍醐味というか、出てくるカードそのものよりは、カードを引くために自分の中に存在しうる選択肢を整理する中で自然と自分が求めていたことや気づいていなかった問題に気付かされたりするのです。
では生成AIの場合はどうなのか書いてみようと思います。
ここ最近の急激な技術発展で、いっとき前までは役に立たないbot程度だったAIがかなり有用になり始めています。
私も普段から文書作成などで多用していますが、発展しているといえどもまだまだ工夫は必要です。
具体的に言うと、有用ではあるものの、物分かりの良さという意味だとまだいまいちなので、何か質問や依頼をする時はその目的や背景、条件をなるべく詳細に伝えてあげる必要があります。
タロットと同じで、漠然とした状態のまま質問を投げつけることは可能ではありますが、そうすると自ずと返答も抽象的で漠然としたものになり、その答えを解釈したりさらに自分で考えないと使い物にならないことが多いです。
ここで、タロットの時と同じように、自分の知りたいことをはっきりさせる・整理する必要がでてくるのです。
タロット同様にこの作業はすごく大事で、自分が必要としている情報が明確になったり、自分が何がわかっていないのか、何の情報が不足しているのかを把握できたことが何度もありました。
ということで、なんとも取り留めもない話ではありますが、自分が必要としているものや情報、今持っている選択肢などが整理されるという意味でタロットと生成AIは似たような機能をもっているのでは?ということを書いてみました。
多分これってタロットや生成AIである必要性や必然性ってあんまりないと言うか、他にも似たような働きをするものってあるのかもしれませんが、人間ではない何かと対話し問いかけるにあたり生まれる副産物みたいなものなのかなと思いました。
そういう意味で自分の頭の中で考えたり、ノートに書き出したり、他人と会話する際には得られない効能があるのでは?と思います。
感情との付き合い方
こんにちは!
やっとあったかくなったと思ったら雨がちな日が続いてますね。
3月後半から三寒四温が繰り返されて自律神経がぐちゃぐちゃになってましたが、みなさん体調いかがですか??
春は環境の変化も多いし何かとストレスや疲れが溜まりやすいので、ご自愛モードでいきましょう!
さて今日は感情との付き合い方、よりよく生きるために感情をどう扱っていくかについて書いてみたいと思います。
まず大前提として、感情は悪者ではない、感情的であるということは悪いことではないということを確認したいです。
”大人”として日々を生きていると自分の感情を生の状態で外に出すことは非常に嫌がられるので、ほとんど機会としてなくなってくると思いますが、感情そのものは悪いものではないと思います。
そもそも感情的な振る舞いとは怒りや不満、悲しみなど一般にネガティブと言われる感情を丸出しにすることを指していることが多いと思いますが、そもそもある感情を感じること、ある感情が発生することとそれを外に表現すること、またその表現の方法は全て切り離して考えるべきことだと私は考えています。
まず、感情が発生するという一番根源的な部分について、そもそもどんな感情も人間が生存し種として存続するために必要なので存在し今でも残っているので、発生すること自体をやめようとする、生まれてきた感情をみないようにするというのはあまり得策ではないと思います。
ネガティブな感情そのものは感じること自体が苦痛ですし、あえてネガティブな感情を感じる機会を自分から増やす必要はないと思いますが、自分にとって大事なもの、価値を感じるものを理解する上で非常に有効な目印になります。
自分にとって大事なものを貶されたり、蔑ろにするようなことを言われたりそういった行動をとられたら誰だって腹が立ちます。
腹を立てることそのものを悪いことだと思って、自分が感じている怒りを無視したり抑えたりし続けていると、自分にとっての価値や喜びもわからなくなり、ポジティブな感情も同じくらい感じにくくなってしまいます。
そもそも感情なんて感じない方が気楽だ、という考え方もあるかもしれませんが、そうなってくると生きがいや人生の意味など究極的には自分ひとりじゃないと答えが出ないような問題にずっと答えが出なくなる可能性があります。外的な指標や評価基準で測れる目標や基準で人生の選択を続けていても、自分の幸福度が上がる確率を上げることはできても、あくまで確率論であり、それが自分が幸福を感じる環境につながるかどうかは未知数になってしまうのです。
自分はどんな時にネガティブな感情を感じやすのか?をなるべく正確に理解して、それがなるべく発生しないように自分を舵取りするのがよいかな、と思っています。
そして、ネガティブな感情が生まれ、それを表現するときは、その場やその相手との関係性などを考慮して表現できるのが理想的だと思います。
私はこの部分はまだ修行中です。きっとずっと修行し続けることになると思ってます。
これまで感情を抑えて生きてきたので、親しい人の前では少し出しすぎたかな、と思うくらい表現して、それでも大丈夫という経験を重ねながら少しずつ自分なりに自分を可愛いと思える出し方になるといいなと思っています。
逆にこれまで感情を出しすぎてしまっていた人は、怒りや不満などを感じたらいったんその場を離れたり、会話を中断したりして、すぐ外に発散せず自分の中で感情を咀嚼する時間を作ることで少しずつ表現がチューニングされてくると思います。
あとは、もやもやと行き場のない感情や誰にも言えないようなドス黒い感情は日記に書くのがおすすめです。
誰も傷つけないし、感情を言葉にする練習ができるし、頭の中でずっと抱えたままにしておくよりよっぽどスッキリします。
愚痴を言ったりするのもコーピングメカニズムとしてはありだと思うのですが、やはり書き出したりしてみると自分がどんな時にどんな感情になるのかパターンが見えてきて、自分を勉強できます。
これをもっと本格的にやりたい人は認知行動療法(CBT)を自分でやってみるといいかもしれません。
(私も一時期やっていて、拾い物のワークシートなどが手元にあるので興味ある人は連絡ください。)
ざっと書いてしまいましたがまとめると、感情は人間にとって必要なので存在しており、そこにはネガティブもポジティブも本当はないということ、だからこそどんな種類の感情も等しく感じて、自分を知るためのサインとしてみてみること、感情が出過ぎてしまうか、抑えすぎてしまうかによって感情の表現の仕方をアジャストすることをおすすめしたいです。
私の感触の話ですが、日本で普通に生きてると感情を抑える方向に自然と矯正されていくと思うので、よっぽどキレ症の人とかじゃなければ自分の感情の機微に敏感になり、観察して、観察日記みたいな気持ちで色々書いてみる方がいいんじゃないかな?と思ったりしています。
私は、感情って自分のことなのに、自分の中にいる野生動物みたいで、自分の意思とは全く別の意思をもってて、勝手に怒ったり笑ったりするので、やっかいだけどだからこそ手懐けたりいうこと聞かせようとしない方がいいなと思っています。
4月になって環境が変わったりして知らない間に疲れやストレスが溜まっている人も多いのではないでしょうか。
ちょっとしたモヤモヤも逃さず、なるべく自分にとって心地いい環境を自分に作ってあげられるように頑張っていきましょう!
半径5メートルから始める改革
こんにちは。
今日は国際女性デーですね。
せっかくなので、これにあやかってフェミニズムに絡めて色々書いてみようと思います。
まずは国際女性デーの起源についておさらいです。
国際女性デーは1908年3月8日、米ニューヨークで女性たちが労働条件の改善と婦人参政権を求め、大規模な抗議活動をしたことに由来して、『女性の政治的自由と平等のために行動する記念日』として、1975年3月8日に国連で提唱され、77年の国連総会で議決されたそうです。
ここ数年でよく聞くようになったので割と最近制定されたのかと思いきや、かなり歴史のある記念日だったんですね。
ちなみに、母の日のような感じで、身近な女性に、シンボルとされているミモザの花やプレゼントを渡す風習がある国もあるようです。
それから、なんと世界には国際女性デーが祝日になっている国もあるのだとか・・・
いいなあ、今年なんて3連休になるじゃん。日本が祝日になる日なんてくるんですかねぇ。
以下毎度お馴染みWiki先生から拝借しました。

てなわけで、女性やその歴史、これからについて思いを馳せる1日ですが、みなさんフェミニズムに対する印象ってどのようなものを持っていますか?
自分で情報収集したり活動を行っているフェミニストの方、言葉は聞いたことあるけどなんなのかよくわからない方、過激で少し怖い印象を持っている方様々かと思います。
ちなみに私は上記のどれにも属さないかなーと思っています。強いて言うならば、フェミニズムとは一定の距離をおきながら自分なりの形で女性の在り方が受け入れられるように生活の中で働きかけている実践者、という感じになるかなと・・・
ここから急ですが、私がこれまでフェミニズムとどういう距離をとってきて、今どのような形で関わっているのかを書いてみようと思います。
私がフェミニズムという概念に触れたのは大学に入ってからだったと思います。私の通っていた大学はジェンダーセクシュアリティ研究に一定の歴史があったのと、アメリカの教育制度の影響を強く受けていたことから、フェミニズムや性的マイノリティに対する意識が高く、授業もたくさん開講されていました。
フェミニズムに限らずさまざまな社会課題を学ぶ中で、「今の日本の現状はやばい、絶望的だ」という考えから「現状が酷すぎてどこから手をつけていけばいいのかわからない」とパンクしてひとりへたっていたのを覚えています。
あまりにも社会課題が山積みなのにも関わらず、若者の投票率は低く、仮に私が1票投じたところで到底政治は変わらないし、仮に政治が多少前向きに進歩しても効果的な政策が実施されて、自分や困っている人の生活が実際に変わるまでのタイムスパンを考えると気が遠くなってしまったのです。
要は個人の力で解決できないことを、まるで私個人の課題であるかのように感じてしまっていたのです。
また、その時の私のフェミニズムに関連する情報源は主にTwitterで、体系だったフェミニズムの歴史や知識を勉強していたというよりかは、自分と直接関わりのない遠い場所に住む誰かの女性として生きる愚痴や苦しみを日々見ていたのです。
今思えばこれは諸刃の剣で、どちらかというとあまり良いことではなかったなと思っています。このブログでも、折に触れて自分が接触する情報は意識的に取捨選択すべきであると言っているのも、この経験が元になっています。
と言うわけでネガティブな情報に酔ってしまったこと、こうした社会問題を解決することと自分が仕事をして食べていくことがいまいち結びつけられないまま大学を卒業して、毎日のようにそういうことを考える生活は一旦終わりました。
ただ、社会人として働き始めてからも根本的な問題意識が消えたわけではなく、自分ができることは何か、いつも考えていました。
いわゆるフェミニズムに関するイベントやミートアップに出席してみることも検討しましたが、フェミニズムをちゃんと学問として体系的に学んだわけではないことに引け目を感じていたのと、いまいちアイディアに共感できるものに出会えなかったので、それ以外の方法を模索してく中で、自然と自分なりの形にたどり着いたように思います。
それは、自分の身の回りの半径5メートルにいる人の社会的背景を理解した上で意識的にサポートする、ということです。
これは女性に限った話ではなく、性的マイノリティやエスニックマイノリティ、その他のいわゆる社会的に弱い立場に立たされている人(極論言えば白人男性以外)の属性を理解した上でその人が置かれている立場やそれに伴う問題を多角的にとらえてサポートすることを指します。
すごく単純化した例をひとつ書くと、あなたの周りに外国で生まれ育った女性Aさんがいるとします。彼女は非常に人格も優れていて、パフォーマンスも悪くないはずなのに、会社での昇進のチャンスを複数回逃している、としましょう。
この時、単純に考えれば、彼女の実力不足や運が悪い、といった捉え方になると思いますが、客観的なパフォーマンスが他の同僚よりも良い場合、日本的な間接的なコミュニケーションが不十分であること、ビザの問題があること、女性のため出産でキャリアが中断する恐れがあることから昇進が先延ばしにされている、と捉えることも可能かもしれません。
あと本題からずれるので深掘りしませんが、性的マイノリティはどうなんだ、そもそも人を属性に分類するな、という批判があるかもしれません。
まず、人の特定の側面に名前をつけることで個性が見落とされたり、単純化されてしまうのではないかという批判に対しては、私はその通りだと思います。
ただその一方で、人間の属性に限らず、何かを認識・理解する上で何かしらのカテゴリづけや分類を行うというのは、もはや反射的なレベルで起きる事象であり完全に無くすことは不可能だと思います。また、ある程度フェミニズムを実践的に取り組むのであれば、明確な議論を可能にするために分類づけは必要かつ有効だと私は考えています。
さらに言うと、1人の人間を一つのラベルだけで理解するのではなく、より多くのラベルで考えられるようになると、より複雑な背景の理解が可能になると思います。
あとは、半径5メートルという言葉もポイントだと思っています。私の大学時代のバーンアウトの一因に、自分にとって身近であるか否かを無視して、比較的距離の遠い他人の苦しみまで全力で受け止めようとしてしまっていたことがあります。
これは精神的キャパシティが無限にある人間であれば良いと思うのですが、残念ながら私は自分のことですら精一杯になることもあるので、自分のキャパシティを超えない中でできることをやるのがすごく大事だという結論に至りました。
心の底からどうにかしたいと思っているからこそ、短期的に熱くなってあれこれ動くよりも、長期戦で無理のない範囲で、自分ができることを確実にやりたいと思っています。
あと、このモットーでいくと、なかなかフェミニズムに共感する部分を見つけられない非当事者も、自然と自分なりの関わり方を見出せると思うのです。
これは私が大学の頃からずっと考えていたことですが、フェミニズムは他の学問とは違って当事者性がすごく重要だと考えています。
他の学問は主観をなるべく排除し自分が客観的な観察者となることがよしとされていると思いますが、フェミニズムはもっと主観性、個人の経験が根底にあるものだと思います。(多分ちゃんとアカデミアでフェミニズムやってる人からすると違うのかもしれません。ソースはありません。)
本当に社会が前進していくためには、現状の社会構造で実権を握っている男性が、どれだけフェミニズムを自分ごととして捉えられるかが重要だと思います。
もちろん数字や客観的エビデンスから理解を促すことも重要な一方、結局人間自分にとって大事なことだったら後回しにはしないということを逆手にとって、男性にもフェミニズムが自分ごとになるようにしてもらえれば良いと思っています。
その過程として、男性には自分の家族や友人など身近な女性が普段抱えている問題を理解し、それは果たしてその女性個人の問題なのか?ということを突き詰めて考えることが第一歩になると思うのです。
これはもっと言ってしまえば、自分の周りにいる他者の苦しみに関心を持ち、ケアするという人間として非常に根源的な営みに基づくもので倫理や道徳の世界になってきてしまうのですが・・・
不思議なことに、上記のような営みは一般に女性が男性に比較して得意であると言われていますよね。
ここも実は私的にはポイントで、男性のやり方に合わせてフェミニズムを実践しないでいたいのです。そういうアプローチを取る人を悪く言うつもりはありませんが、私は自分がやりやすい形を模索した結果こうなりましたし、女性的なアプローチを通じてフェミニズムを広める、というのもなんか面白いかなとおもってやっています。ちょっとした反抗の気持ちでもあります。
また、半径5メートルより遠い人はどうすんだ、と思われると思いますが、私の友達や仲間は、彼彼女らの輪があるので、そこでも同じ営みがされていれば良いと思っています。で、似たような考えをもった仲間同士でもまたサポートしたりアイディアを交換したら、芋蔓式に輪が広がっていくので、そんなこんなしていくうちに徐々に社会が変わっていくのではないか、と私は思っています。
大学の頃はもっと政治や教育、メディアといったマス的な方向でどうしたら世の中が良くなるのか考えていました。今でもその方法は無意味と思っているわけではないですし、むしろ非常にパワフルだと思っている一方自分のフィールドではないこと、結局人間は自分の個人的なつながりの中から強く影響を受けている、という考えから草の根的な動き方に力を入れています。
フェミニズムに限らず、大丈夫かよ〜と嘆きたくなる出来事もまだまだ多いですが、それでも物事は確実に前進していると感じます。
私が大学生だった5,6年前に比べて、フェミニズムやその他の社会問題について関心を持つ人は増えたと思います。
地道で終わりのない旅ですが、焦らず腐らず、自分のできることを自分のできる範囲でやっていこうと思います。
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では!