こんにちは。
自分が書いた記事を読んだら続きが書きたくなったので続編を付け足します。
前回は、風の時代は今までよりも精神的なものに人々の価値観がシフトすることで今まで生きにくいラベリングを抱えていた人たちがこそこそしたり肩身狭い思いをしないで済むようになっていくんじゃね?という比較的前向きな視点から風の時代を捉えてみました。
今回は逆にこれからの時代なんか嫌な予感するなというか、おそらく起こるであろう私が個人的には嬉しくない社会の変化について書いてみようと思います。
前回同様明確なソースはなく、私が普段いろいろ見聞きしている中で見えてきた傾向の話ですので話半分に読んでください。
一つ目は隠し事ができなくなることです。
前回書いたように、今まで人々が自分の中に秘めていたもの、表現されていなかったことが表にでてくるようになっており、基本的にそれは肯定的に受け止められることが多いように思います。(芸能人のカミングアウト等)
ただ、これは加速すれば隠し事はなし、表と裏は完全一致、というか裏という概念が認められないみたいなことになりかねないのではと思っています。
街中のあらゆる場所に監視カメラが設置され、どこで何にお金を使っているのかは電子決済の履歴を辿れば丸見え、住んでる場所だってSNSやインターネット上の個人情報を集めればごくごく簡単に特定できてしまいます。
平面的に解釈すれば社会はクリーンになり、住み良い暮らしが実現されそうな気もしますが、いつも誰かに見られている、そこまで行かなくともトレースしようと思えばプライベートだと思っていたものも簡単に他者に知られてしまう可能性があるということはちょっと居心地が悪いと感じる人も少なくないのではと思います。
個人的には人間にはタブーのひとつやふたつはつきもので、生まれたから死ぬまでクリーン100%で生きるのはなかなかしんどいのではと思います。
最近では学校での体罰なんかもかなり厳しくなっているようですよね。私が中学生の時は教科書で頭叩かれたりもしました。別にそのやり方が良いとか言いたいわけではないですが、体罰に限らず人間の暴力性や怒りなど生きていく上で完全に消すことはできないものがどんどんオフィシャルに受け入れられなくなっていると思います。
ただ、受け入れられなくなっているからと言ってそれらが完全に消えることはないことを踏まえると何らかの形で存在する場が確保されるべきだと思うのですが、もはやこのような意見もかなり憚られるような風潮になってきていることを感じます。
怒りや暴力性から派生すると、男性性に対する眼差しの厳しさもかなり感じます。
この辺は人によってみている景色がかなり違うと思うので私がみている限りという点を再度強調する必要があるかと思います。
特にフェミニズムの潮流において、Toxic Masculinity(有害な男性性)と言った用語が用いられることからもわかるように、男性性は敵視の対象となり、その結果当然として議論の中心にはないと感じます。
ただ、先ほどのタブーの話と同様、男性性自体は心や体の性別に関係なく全ての人間が程度の違いはあれどもっており、必要なものだと私は思っています。
なので、有害な男性性を抑圧するのではなく男性性をもう一度見つめ直し、再定義する必要があると思うのですが、その辺は逆に肩身が狭くなりそうな気がしますね。
(もちろん私が勉強不足なだけで世の中にはこの辺を議論している人もたくさんいると思いますが、少なくとも現時点でのメインストリームではないと思いますし、日本に関して言えば私が生きているうちにメインストリームになる日がくるのか怪しいくらいかなと思っています。)
最後は少し毛色が変わりますが相互不干渉です。
いわゆる個性が重視される時代においては、あなたはあなた、わたしはわたし、お互い違うけど尊重し合おうね、という一見風通しがよく気持ちのいい考え方が浸透していくように思えます。
ただ、これはともすればどこまで行ったって他人は他人でわからないんだから考えたって仕方ない、とかなりドライで線引きのはっきりした考え方にも繋がりかねない気がします。
特にこの辺は日本社会においてどのような社会的通念が作られていくかかなり興味を持ってみています。
日本社会においてはこの集団と個人の在り方は非言語の中で絶妙なバランスでもって実現されていると思います。(この辺まだあんまり言語化できるほとわかってない)
私は私、私はこういう人間なんだよね、と言葉で相手に説明してわかってもらおうとする姿勢はかなーり西欧的に私には映ります。
(もちろんこういう自我のありかたはかなり日本でも一般的になっていると思いますが、それは日本社会においても西洋的な自我のあり方が浸透しているにすぎないと思っています。)(この辺は西洋哲学と東洋哲学の世界の捉え方の違いとかからもわかると思う、知らんけど)
江戸時代以降様々な西欧の概念や価値観、文化や慣習などをスライムのごとく吸収し既存の日本のものと融合させてきたことからも、おそらく絶妙なバランス感覚で成立する形になっていく気がしています。
日本社会(日本社会における集団や組織)は、非言語での察し合い・読み合いと責任の不明瞭さと非効率、構造の不在という傍目から見るとかなり崩壊した状況にも関わらず、めちゃくちゃ絶妙なバランスの中でなんだかんだで成立しているな、と本当に常々思います。
まじでなんなのこれは。結構いろんな場面で色々考えているんですが、何で成立してるのかはマジで謎。そしておそらく集団や組織の構成員も誰一人として成立している所以を説明できない。そもそもバランスを意識的に取っているつもりも多分ない。よくわかんないけどどうにかなってるっぽいが蔓延していて私はもはやいつも感心しています。
大脱線しました。日本社会がいかにアンビバレントで絶妙なバランスで成立しているのかについてはまた改めて書きたいです。誰か一緒に考えてほしい。もしくはこれについて考えている人がいたら情報源教えてほしい。自分で書いておいて思い出しましたが、丸山眞男の「現代政治の思想と行動」でそれっぽいニュアンスの話は出てた気がします。だいぶ前に読みかけたままなのでニュアンスずれてる可能性もありますが。
相変わらずかなり発散しましたが、ここまで読んでくれた方ありがとうございます。
面白がってくれたら幸いです。なんか派生して話したいこととかここどういう意味?とかあればコメントやインスタのDM、直接会って話すなどリアクションくれると楽しいです。