すみえのいろいろ日記

本来自分の好きな音楽を語るブログとして開設しました。これからは占星術を中心により幅広いトピックについて色々と書いてみようと思います

風の時代/多様性についてざっくり考えてみた

こんにちは。

 

暑い日が続きますね。冷房の効いた部屋にいても熱中症にはかかるらしいのでみなさん健康第一で元気に過ごしてくださいね。

 

今回は全く音楽とは関係ない話を書いてみようと思います。

最近音楽じゃない話を書きすぎているので、別のブログを作り直すか、podcastとかの喋り系の発信に変えてみようかと考えていますが、プラットフォームをどうするのか考えるより前にアウトプットしたいことがでてしまうのでとりあえずカオスなまま進行します。

 

みなさん風の時代って聞いたことありますか?

2020年12月22日に水瓶座土星木星が重なるという天体イベントがありました。

占星術の世界ではこのように比較的回転周期が長く滅多に重なることのない天体が重なるタイミングが節目となり、社会全体の価値観が変化して時代が切り替わって行くと考えられています。

 

風の時代という単語に親しみがない方でも、コロナやそれに伴う生活スタイルの変化で公私共に大きな変化があった方も多いのではないかと思います。

 

風の時代を象徴するキーワードとしては、多様性(個性)、テクノロジー、平等、精神性(↔︎物質性)などがあります。

 

今回はこれらを色々縦横無尽につなげあわせて何となく私なりの風の時代に対するざっくりとしたイメージをお伝えしてみたいと思います。

かなり主観的な考察なのと、リサーチが追いついてなくて推測や直観で書いてるところが多いので、ふーんと思ってもらえたら嬉しいです。(ほぼ独り言だからここから燃えるとかはないとは思いますが)

 

まず、人々の関心が目に見えるもの(物質)から目に見えないもの(精神)に移っていっていることは、みなさんも肌感覚として感じているのではないでしょうか。

 

マインドフルネスや瞑想、アンガーマネージメントみたいな単語も、ここ数年でかなり浸透した気がします。

 

これは純粋に物質的なものから得られる幸福感や快楽には限界があることに多くの人が気づき始めたことによる自然の帰着だと思います。

また、日本に限定して話せば、大きな戦争などもなく、生まれた時から生活に必要な最低限の物質は基本的に確保されているため、物質を獲得することに多大な労力をかけたり、それを中心に自分の人生をプランニングすることも減ったのだと思います。

 

また、さまざまなテクノロジーの進化によって今まで必要とされていた物質が必要で無くなったことも関係していると思います。(テクノロジーの進化はコンピューターの誕生以降物質を非物質化すること=仮想化することを意味するようになったと思います。)

 

食べるものにも困らない、着る服も今日寝る場所もある(それが全て自分の所有物であるかは別として)という状況が当たり前に毎日続いている。客観的にみれば「幸福」といっていいはずなのに、なぜか幸福感が感じられない。何かが欠けている気がする。

現代日本にはこんな言語化できないモヤッとした欠落感を抱えた人がたくさんいるように思います。(主語でかすぎ)(Twitterのみすぎかも)

 

で、みんなこの欠落感の正体はなんなのか考えたり、考えないうちにも何かで埋めようとしてお酒を飲んだり買い物したりサウナで整ったりしてるんだと思います。(no offence)

欠落感を埋めようみたいなマイナスをプラスだけじゃなく、ゼロをプラスにするモチベでやってる人もたくさんいると思いますが。

 

で、非物質的な幸福を追求していくと基本的にみんな自分の内面性や主観に頼らざるを得なくなってくるのではないかな、と個人的に考えています。

 

ここで早速反駁してみましょう。

非物質的な幸福の例として、人間関係による幸福があります。

 

主観(相性、好き嫌い、その他自分がパートナーに求めるもの)では無く客観(収入、社会的ステータス、客観的な外見の良し悪し、その他自分以外の他者がパートナーを評価する上で重要視しそうな要素)で決めてる人もいっぱいいるじゃないか!という意見があるかもしれません。

 

ですが、おそらくそういう人はパートナーを物質として捉えているのではないかと思います。トロフィーワイフという言葉がその本質をよく表していると思います。アクセサリー感覚でパートナーを選んでいる、ということです。つまり、パートナーを非人間化(物質化)してると言っても良いかと思います。

なので、このような価値観でパートナーを選んでいる人が得ている幸福感は、物質的幸福感と同じようなものなのではないか、と思います。

 

しかし、非物質的な幸福感を本当の意味で追求した場合、他人が欲しがっているものが必ずしも自分が求めているものとは一致しなかったりするのではないでしょうか。

 

ここで唯一頼りになるのは自分の主観、内面性、経験、感覚です。

もちろん他人の意見を見聞きすることは非物質的幸福感の探求に貢献するとは思いますが、他者の意見を取り入れた上でそれが本当に自分にとって必要なものなのか、求めているものなのかは自分にしかわからないというのがミソだと思います。

 

で、こういう内面の探求をしていくと、自分と他人の違うところは何なのか、自分を自分たらしめているものはなんなのか、という問題にぶちあたり、個性というものを考え始めると思います。

 

近年ジェンダーセクシュアリティに関するトピックがかなりオープンにされるようになってきました。これも、先ほど例に出したように人間関係が人間の非物質的幸福においてかなりの割合を占めていること無関係ではないと思います。

 

また、ジェンダーセクシュアリティに限らず、民族的マイノリティやいわゆる障がいをもつ人への眼差しが徐々に変化しつつあることも私は比較的近い文脈として捉えています。

 

ここからはさらに乱暴なまとめ方になります。

 

上記のような人々は今までの社会や歴史の中ではいなかったことにされていたと言っても過言ではないと思います。

それぞれのマイノリティグループがそれぞれの理由で、その個性をもった状態で社会と対峙することを許されていなかったと思います。

例えばゲイの男性がいたとして、社会生活はそつなくこなしていたとしても、自分がゲイであるということも誰一人にも打ち明けられずに過ごしていたなら、それはもはやその人が完全体のその人として社会で存在しているとは言い難いのではないかと思います。またその人は自分がゲイであるということに関してはどこまでも自分の内面の問題

として扱うことになります。

しかし、近年ではそのような内面化されていたマイノリティ性を個性の一部として表現することに対して社会の寛容性が上がってきているので、内面化されていた個性と外側で表現している自分との乖離が減ることで結果的に非物質的・精神的幸福がもたらされているような気がします。

 

これは別に性的マイノリティの人はそのことをアウティングした方が幸せだ、と言いたいわけではありません。単純に他人が認識する自分と自己認識にあまりにも乖離があったり自分の個性の一部を必要以上に長期間抑制していると色々と不具合が起きてくるのではないか、という意味で書いています。

 

さらに言ってしまえば、これらのマイノリティ性と紐づけて語られる要素も人によってさまざまな組み合わせがありますし、同じくくりの中でも個人差があるので、究極的には一人として同じ人はいないよね、という話になりますし、個々人の在り方を尊重しましょうよね、というのが風の時代の価値観の主軸になっていくと思います。

あと付け加えるとわかりやすく個性とマイノリティ性を≒として扱ってしまいましたが、数が少なかったり抑圧されていることだけが個性と結びつくと思っているわけではありません。ただ、近年「個性」として取り沙汰される性質がマイノリティ性と結びついていることと、非物質的幸福の探求に関連があるのでは、ということを説明したかったです。

 

で、結局平等ってどうやって実現すんのよとか個性とか言っても限界があるとか!とか色々議論は山積みですが、その辺は専門でやってる人にお任せしようと思います。(逃げ)

 

毎度のごとくツッコミどころ満載の雰囲気殴り書きになってしまいましたが、なんか何と無く言いたいことが伝わってる人が一人でもいたら嬉しいです。